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Ian Bicking

本記事は、原著者の許諾のもとに翻訳・掲載しております。

私は管理職になりたてです 。今まではプログラミングの技術に注目することに時間を費やしてきましたが、現在はプログラミングの技術に注目する人たちに注目することに時間を費やしています。

15年間、私は開発者コミュニティと呼ばれるようなところに参加し、多くの進歩を見てきました。時には、進歩がないという意見に対して 感傷的になる こともありますが、それでも進歩はあったと思います。私たちはプロフェッショナルとして、趣味人として、または情熱的な技術者として、コード周りのテスト、デザイン、パッケージ化、配布、そしてコラボする方法を理解し、そして何よりも、そのようなことについて 語る 方法を理解しているのです。

私はこういった進歩の大部分がインターネットによってもたらされたと固く信じています。インターネットがなかった頃も、もちろん技術的進歩はありました。そして、プラクティスについて書かれた本も出版されてきました。しかし、それだけでは不十分なのです。70年代を振り返ると、プログラミングについての素晴らしいアイデアがありましたが、開発者にとって、そのようなアイデアを 取り入れる のに使えるインフラがありませんでした。

私は、教わることよりも自ら学ぶことが、人々にとって大切だと考えています。もしインターネットが、優れた書物のように情報を拡散する単なるメディアだったとしたら、それはそれでよいとは思いますが、変革をもたらすものとはならなかったでしょう。インターネットには、それ以上のものがありました。インターネットは、賛成や反対意見を戦わせながら議論をし、また他の人の議論を見守ることのできる場です。人々は挑発的な意見を述べたり、一歩引いて保守的な意見を述べたりすることができます。書物に記したくないような変革的な意見を述べることがインターネット上では可能になり、それが転換点となりました(まるで私は、多くの人々が本を書きたいと思った時に簡単に本を出版できた、と言っているみたいですね)。

議論というものは、1つの機会だと思います。自分の考えについて、他人を説得する機会というものはほとんどありません。しかし議論は、なぜ自分がそうしようと思うのかを理解し、より理解を深め、また将来、意見が変わった時のためのフレームワークを作るチャンスとなります。”その仕事に適切なツールを選ぶだけ”という言葉に私が反発するのは、そのためです。この言葉は、その仕事に適切なツールが何かを議論するのを妨げるようなものだと、私は思います。

前置きが長くなりましたが、私は技術者として成長してきたこれまでの道のりを懐かしく思い出します。というのも、もう そんな経験はできない からです。仕事について意見を交わしたり、詳しい内容を話し合ったりはできません。論点を明らかにするためにエピソードを披露することも、実施すべき方針、つまり組織から私自身や私を通して部署に与えられる指示について議論することもできません。私にできるのは、自身が直面する問題に対処すべく孤軍奮闘することだけです。

ただ、これには十分な理由があります。こんな状況は気が滅入るものですし、他に方策がないものかとずっと疑問に感じてはいます。それでも、私が自分の仕事について話せない背景には、もっともな理由があるのです。たとえ組織的には下級の控え目なリーダーであっても、私はリーダーシップを取る立場にいます。そのため、私の発言によって周囲を被害に巻き込んでしまう可能性は大いにあります。特に、私が日頃よく考えていることについて話してしまった場合に、その恐れがあります。私は、社内における緊張感についてよく考えます。言い換えれば、社内でリーダーシップを取るモチベーションです。私は、自分の報告に対する不安、つまりどんな成果を上げたか、何を期待されているか、何を強く求められているのかといった、言葉にならない緊張感について考えます。このことについて関係者と話し合うことはできますが、関係者とは強い利害関係があるので、協力して知恵を出し合うことはなかなかできません。

これは偏った意見かもしれません。私はとても思慮深い人々と一緒に仕事をしています。私たちの仕事は共通の目標の上に成り立っています。ただ、共通の目標というのは非常に強力なものですが、十分とは言えません。

私たちは管理職のコミュニティとして(そんなものがあるのでしょうか?)向上しているのでしょうか? 確かにある程度は向上しているでしょう。マネジメント・コンサルタントや関連書籍、その他の様々なマネジメントを扱う素材には学ぶべきものがあります。しかし、それは議論とは異なるものであり、取り入れるのは簡単ではありません。私には、仲間のコミュニティの中で交流し、意見を交換する機会はないのです。

マネジメントの学習といえば、これまで マネージャー・ツール のコンテンツをたくさん聞いてきました。安心感が得られるというより権威主義的な内容ではありますが、とても勉強になりましたし、参考にもなりました。この記事を書く前に、2部構成のコンテンツを聞いていたところです。 彼らを受け入れよう-プロフェッショナルの従属関係 パート1パート2 です。

ポッドキャストから学んだメッセージは以下のとおりです。あなたは管理職として会社の決定を支持する責任があります。決定を実行するだけでなく、決定を支持し、支持していることを伝え、もし反対だとしてもその思いを隠して会社に仕えなければなりません。反対はできますが、危険をはらんでいるので反対できません。チームとの間に一線を引いて距離を置かなくてはなりません。チームにとってあなたは会社側の人間であり、同僚ではないのです。

その主張は論理的に筋が通っていますし、賢明です。部下から不満が上がってくるのは、上司の不満が部下に知れ渡ってしまうのとは全く違います。ある意味で、あなたは管理職として自分が影響を与えることができない決定に関して自分自身のコンセンサスを形成しなければなりません。あなたは報告するために恐らく肯定的に決定を伝えているでしょう。自分自身のため、肯定的に決定に関わるようになるからです。しかし、ポッドキャストで聞いたアドバイスはもっと明確です。意見を求められたら、平然と決定に同意しなければなりません。単に認めるだけではなく、同意が必要なのです。自分の意見を言うのではなく、会社の代弁をしなければなりません。

最悪です。なぜこんな契約をする必要があるのでしょうか。そんな風に感じる指示を受けると、私は文字どおり悲しくなります。意味不明な指示だったら、不愉快な気持ちになるかもしれません。その指示が自分とは相いれない価値観を表していると思ったら、怒りを覚えるかもしれません。しかし、そういった指示を受け入れることになるので、悲しくなるのです。

それでも私は進歩を信じています。過去にやった時よりうまくできると思っています。未開の道や、まだ現在の慣習と比較できる状態にない選択肢、現在のカテゴリを打ち破るような問題の新たな考え方があると信じています。これは全てマネジメントにも言えます。つまり、組織を形成してまとめる新しい方法です。世の中にはそのアイデアがあると思います。しかしいまいましいことに、私にはそのアイデアが何か分かりませんし、どうやって見つけ出すのかも分かりません。私たちがしていることについて、どのように語ればいいのか分からないのに、語ることからしか何も始まらないのです。